泉田宥美治療院 の日記
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私の治療への思い<2>
2013.07.29
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私は僧侶になりたくないというのもあり、15歳からプロボクサーになろうと決めました。トレーナーから、「お前のボクシングはアマチュアじゃなく、プロに向いている!」と言われたことが本当に嬉しかったです。
そして、いろんな紆余曲折がありつつ、19歳でプロボクサーになりました。両親と4年間という約束だったので、どうせ勝負するなら東京で!と決めていました。
当時、映像では見たことがなかったんですけど、ボクシング雑誌の記事でファンになった伝説のボクサー「飯泉健二」さんの所属している草加有沢ジムに入りました。「飯泉健二」さんは映画にもなった悲運のボクサーで実物は私の想像以上の方でした。新人王戦の時にシューズをもらったのは良き思い出です。
高校生の頃、仕事で初めて腰を痛めてから、ずっと腰痛には悩まされていました。でも、外から見るとわからない痛みなので、なかなか言い出しにくかったです。自分でも、弱音を吐いていると思われたくなく、限界まで我慢していました。
デビュー戦を1ラウンドKOで勝利し、新人王戦の準決勝で初めて敗北。そして、次戦、世界タイトルマッチの前座で無敗のホープとの戦いに敗れ連敗。その頃は腰の状態も非常に悪かったです。ロードワークもほとんどできませんでした。
1年休養し、1敗を挟んで連勝しA級ボクサーになり、初めての8回戦を7ラウンドKOで勝ちました。元日本ランカーに勝利し、次戦で日本ランキング入りを賭けた賞金トーナメントにエントリー。結局、そのトーナメント初戦の5日前、重度の腰椎分離症になり動けなくなりました。悔しかったのは、そのトーナメントを優勝したのは私が勝利した人だったことです。勝負に「ればたら」はないんですけど、勝つ自信があっただけにやりきれませんでした。
結局、両親との約束の4年目ということもあり、腰の状態も良くなく、引退してしまいました。
引退した後、あるトムソンテクニックを使用するカイロプラクティックの先生のところで腰の状態がすこぶる良くなりました。それまでは走ることはもちろんのこと、まともに歩けませんでした。
私はすごく感動しました。もっとはやくこういう治療をしておけば・・・。「自分と同じように後悔してほしくない!」そんな思いで治療師になりました。